存在の証明と自己肯定を考える
凡人であれば皆、
自分の存在の主張であり証明であり、
自己肯定でありと、
自分で自分自身を愛しようとしている。
自分自身を愛しようとする行為が、人のあらゆる言動の原理かもしれない。
それが生きることそのものと言ってもいいのかもしれない。
人は皆、自分では愛しきれない、認めきれない自分というものを裡に沢山持っている。
その愛せない、認められない穴を、何とかして他所から持ってきて埋めようとしている。
他者から愛され、認められることで穴埋めしようとしている。
異性から愛されたいと思うのもそうだ。
自分の欠点も欠陥も、まるごと受け入れて欲しいと思うだろう。
社会から必要な存在と認められたくて、立場や地位を求めるのもそうだ。
社会、会社、世間からの評価を強く求める人もいる。
たとえ仕事ができて評価が良くても、その裏にあるものは、自分で自分の存在を正しいと確信出来ない不信感で、それがあるからその不足した自信を周りからの評価という形で補おうとしている。
勝つことに拘る人もいる。勝負の世界に生きる人などは多いだろう。
そういう人にとっては、勝つことが自分の正しさを証明できるのではないか。
自分の作品を遺したいと考える人もいる。
自分を表現したその作品を他者から認められることで、不足分を補おうとしているのではないか。
本人が意識していようがいまいが最終的には、
人は皆、自分で自分の全てを認め愛しきるというところに向かっているのだと思う。
その過程で、代替え的に他者から認め愛されるということを必要とする。
自分自身を完全に愛しきった時、
自分自身を完全に信じきった時、
他所からの愛を必要としなくなった時に
人はこの世からいなくなるのではないだろうか。
一休