一休 真実の探究

野口整体、霊性修行、スピリチュアルなこと、気 エネルギーについて

瞑想の意義 感じて自己を知る

瞑想の1つの意義に、心と身体を落ち着けるということがある。
日常外に向けて使われている意識を、自身の裡に向けていくことで、心身を鎮め、深く自己を知っていくのである。

心身を鎮めるとは、
絶え間無く動き続ける思考を止めて、一旦その思考から離れるということである。
偏って狭くこだわってしまった自身の意識状態をほどいていくことである。

瞑想をすることで、こんどは離れたところから客観的に日常の自分の偏りやムダなこだわり、狭く閉じてしまってることを知っていける。

日常の自分から一度離れて、別なところから自分を見つめるのである。



現代人は皆、自分の外側に向けて意識を使うことばかりになっている。
反対に、自分の内側に向けて意識を使うことをほとんどしていない。
内側に意識を向けるとは、独りで静かに考えることではなく、心身をただ感じていくことである。考えるのではなく、感じて知覚していくことが裡に向けることである。

外へ外へと一方向にばかり意識が向けられていると、色々な面でアンバランスであり、人間的な成長も鈍化してしまう。
それでも現代社会的な評価という点での成長はそれなりにあるだろうが、もっと深い意味での成長、深化というか、霊的成長といったものの進みが悪くなってしまう。

そうなると不必要にトラブルや災難も増えるし、
本人としても成長進歩の実感が得られない不足感から、現実社会での誰かからの評価を得ることばかりに躍起になってしまったり、
とにかく色々な面で現実も滞りやすくなる。


社会的に評価が高い人にはけっこうこんな人が多かったりする。仕事が出来てこなせる。
だが、意識が常に過敏に働いていて、頭のなかが休まることがない。
意識ばかりずっと使われっぱなしだと、無意識との分離も大きくなり、我が強くなっていってしまう。
自分の価値基準で他人を裁定して見る傾向が強くなる。
受容ができず排他的になる。
自己主張も強くなる。
などなど、心も身体もどんどん硬く狭くなる。

当然社会評価の高くはない人にも、同じような問題は多々ある。


大切なのは無意識と意識の統合を図っていくことである。

無意識の奥は、集合意識であり、自他一如である。
自分と相手との調和であり統合である。
本来自分の心が求めているものであり、向かうべき方向はどこまでも調和であり統合であって、
対立ではないし、分離ではない。

自分の関わっている他者、
自分の身に降ってくる出来事、
自分と外側とで分離しているのを、全て自分自身として、自分の一部にして一つにまとまっていくのが方向としては正しい。

自分の外の世界と自分の裡の世界が、一つことであるのを知っていくとも言える。


そのためには、自我に固執してしまっているもの、
言い換えると、偏った意識にとらわれ続けている状態をほどいて、そこから脱け出していかなければならない。

無意識と分離してしまった意識状態というのは、それ自体が偏狭なものになり本質から離れてしまうものである。



普段から意識ばかり、思考ばかり使っている人は、
一度それらを完全に休めて、自分の中の無意識の働きを感じてみることが大切です。
阿呆になるつもりで考えるのをやめ、道徳的に自分を裁くこともせず、ただただ自己を感じていきます。
身体の声に耳をそばだてるように集中します。

意識活動を活発に行うばかりでは、自分を知ることが疎かになります。

ブルースリーも言っております。

don't think ! feel !



一休