法の道 自己記録
霊性修行を行うということには何の意味があるのか。
禅も密教もその他宗派も、元を辿れば釈尊の教えであるから、やっぱり輪廻からの解脱ということが一つ根底にはあるのだろうと考えている。
霊性修行というもの、解脱へ向かうための知恵と技法を特化して学んで行っていこうとする道といえる。
解脱に至るためのショートカットの方法とでも言えるだろうか。
出家してお寺で行う修行では、欲を刺激する色々なものを断つことをするが、
そこには余分に因果を引き起こさずに遠回りをせず解脱へ至っていこうとする目的が一つにはあるだろうと思う。
仏教的な観点からいえば、特に法縁のあった修行者も、そうでない一般衆生も、人間みな霊性修行者であると言える。
それぞれがそれぞれの立場で、境遇で、解脱へ向かって生きることをしている。
自分のような者は、一部のショートカットの特殊技法を専門的に学ぶことになったわけだが、こういう知恵や技法を使ったり学んだりすることばかりが正しいわけでもない。
あくまでも一つの道でしかないと思っている。
あえて沢山の苦労や失敗をして波乱万丈に生きることを望むような人にとっては、こんなショートカット技法など彩りのないつまらないものにもなるだろう。
有名人やアーティストなど、波乱に満ちた経験が独特にその人を輝かせて魅力的な人も沢山いる。
そんな人達の活躍や作品から、自分はどれだけ多くを学んで刺激を受けてきたか、心を救われてきたかわからない。
時々自分のやっていることが、地味でつまらなく消極的な生き方にさえ思える時もある。
粗っぽくてもその時々の想いの全てを、人生そのものにぶつけていくような、そんな生き方をしたいとも思ったりする。
しかし、自分が今回の人生で進んでいくべき道はどうやらこっちの方角にしかなさそうである。
地味な修行を重ねていって、そうして得た力をいずれ自分以外の他者の為に使っていくことになるだろう。
まだ見ぬそれを必要とする人の為に、軽い気持ちではいられなくなってきた。
今はまだ自分のためであるところが大きいが、だんだんその先へ導かれているのを感じている。
何の導きなのか、
神様の導きなのかもしれないし、
自分の導きと言えばそうとも言える。
一休