一休 真実の探究

野口整体、霊性修行、スピリチュアルなこと、気 エネルギーについて

生命の原理と感情力


生きるという営みは、

エネルギーの集散である。



エネルギーを自分で集めて、
その集まったエネルギーを、
今度は何らかの運動系に昇華させていくことで、発散を行っている。

手足を動かすのも、喋るのも、考えるのも、


身体の運動も、大脳運動も、
筋を緊張させて、
力を使うことで、エネルギーを発散している。



集めては使い発散し、
また集めては使い発散する、


これが、人が生きて、行っている生活であり、活動そのものである。



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集めたエネルギーが、
運動系に昇華していく原型は、性エネルギーである。

精子卵子に向かって泳いでいく、
これが原型である。


人が日々行っているあらゆる活動は、この延長上のものであり、

この原型が複雑な枝葉に分かれた発散の形である。



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集まったエネルギーは、
裡側である無意識の底から起こり、外側の意識へ向けて流れていく。



心の底から湧き起こり流れ出てきたもの、
それを使って意識活動を行っているのである。



そうして湧いて出てきたエネルギーが、
運動系に昇華していくには、
感情が存分に使われないと、運動系も存分に使われていくことができない。



これが動物であれば、
本能的な活動でエネルギーの発散は十分に行われていくが、

人間の場合は心、感情が発達している。



この発達した感情が存分に使われていかないと、

心の動かないまま、いくら身体や頭を使ったところで、
エネルギーの発散は十分に行えない。




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心と身体を繋ぐもの、
それを感じているのが感情である。


心と身体が一体になって動くのでなければ、
流れは滞り、エネルギーは自分の中に余ってしまう。

感情が動きになっていかなければ、
エネルギーはどんどん余って、自分の中で鬱滞してしまうのである。




そうして余った感情のエネルギーは、
身体中の硬ばりとして、そこに居留まっている。

肩に余れば肩こりになっているし、
頭に上がって頭に余れば、不安になるし、鬱屈する。





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エネルギーは、
余すことなく使っていかなければいけない。


感情のエネルギーは、
表現されていかなければいけない。



余らせれば余らせるほど、自分を弱めることになる。

生き方だって小さくなる。
輝きだって失せていく。





感情の力、

感情力を使わずに、のっぺり暮らしていたのでは、
いつまで経っても満足なんか出来ない。



そして、使わずにいる感情はいつまでも成熟していかない。
大人になっても歳をとっても、幼稚なままの表現にしかならない。


感情を存分に、
使って使って、使い込んでいくことで、
表現の仕方も大人になり、成熟していくのである。





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一休