泣けるということ
思いきり泣くことができるというのは、
とても大切であります。
メソメソと泣くのではなく、全身を震わせて声をあげて泣ける、
大人になってもこういうことができるというのは、心身を育てていく上で非常に重要なことであります。
勿論大人になれば、それを堪えることができるというのも必要になると思いますが、
それは、思いきり泣くことが出来た上での話です。
当たり前にできる人にとってはなんということもない話かもしれないが、
今の時代は、それができなくなってしまっている人も多いと思います。
顔を見ればだいたいわかるが、そういう人は、
顔にも雰囲気にも豊かさがなく、勢いがなくなってしまっています。
裡から出てくる勢いを、
感情を、むやみに抑圧することばかりになってしまっていて、
外に向けて使っていくこと、ぶつけていくことができなくなっている。
そういうのが悪いことのような、恥ずかしいことのような、そんな風に感じられてしまっている。
外の誰かに向けて、世の中のなにかに向けて、体当たりで吐き出せなければ自分の内側にこもるしかできなくなってしまう。
涙の数だけ強くなると言うが、私もそれは間違いないと思う。
泣くことは、自分を癒すことです。
果たせなかった想いは、
思いきり苦しんで悲しんで、
そして思いきり泣いてしまわなければいつまでも終わらない。先へ進まない。
思いきり苦しみ悲しむことが出来なければ、
思いきり笑うことも喜ぶこともできない。そんな出来事も起こらない。
感情を抑圧してしまうことは、
発達を止めてしまう行為です。
人は誰しも、多かれ少なかれ偏って育っている。
大人になっても、発達しない子供のままの部分を残している。
こういう部分は、大人になってから意識的に発達させていかないと、なかなか伸びてゆくものではないのです。
大人になっても、歳をとっても、
人は、心も身体も死ぬまで発達してゆくものがあります。
発達させてゆかなければいけないものがあります。
歳をとればただ体力が衰えて老化が進んでゆくだけだと思ったらとんでもない間違いです。
本気で人生を生き抜いてきたジジババには、
40も50も尻の青い青二才に見えることだろうと思います。その程度ではとても歯が立たない迫力がある。
そんなシジイに、私はならなければならない。
一休