禅の心
たとえば、夜眠れない時に、
寝ないといけない、寝なければと思ってしまうと、ますます眠れなくなります。
こうしなきゃいけない、
ああしなきゃならないという、
そういう心の使い方をしてしまうと、無意識の緊張が生まれます。
その緊張が交感神経を昂らせて、ますます眠気が無くなるわけです。
寝なければいけないと思うのをやめてしまえば、無意識の緊張は弛んできます。
よく弛み、交感神経が休まってくれば次第に眠くもなるのです。
こういった、
心の使われ方による、心の働きによって生まれる、無意識の不随意緊張というものは、
気づかないところで、日常の活動、ひいては人生そのものにまで、
相当に大きな影響を与えています。
こうあるべき、そうあるべき、
こうでなければいけない、そうでなければならない、というような、
こうしなきゃそうしなきゃと、
結果を、
意識で考えて間違いがないと思われる想定内に、なんとかして収めてしまおうとする、
そういう無理くりな感じの、結果を限定してしまうような心の使われ方が多分に為されておりますと、
余分な無意識の不随意緊張を沢山に作ってしまい、
こんどは反対に身体の側から、その緊張に心を支配されて心が硬くなってしまうというような、
そんな不自然で自由のない、楽でない生き方になってしまいます。
人生を楽にしてゆくには、
想定外のことでも、何が起きても起こるがままに受け入れて行きますという、
そういう態度で挑むことが大切であるのだと思います。
しかし、現世に人として生きる我々は、
皆なにかしら怖れを抱え持っているもので、なかなかそうあることも難しい。
であるから、
そんな心で挑める為には、多くの場合、神なるものを信ずる心が必要な気がします。
それは、信仰にあるような外にいる神でなくとも、
自分の裡なる神を信頼できる心というか、
無神論者であっても、人の運命を漠然と信頼できる生き方、心のあり方というか、
そういったものを育ててゆく必要があると思うのです。
結果にも至る過程にもむやみに制限をかけない、執着しすぎない形で物事に取り組むことが、
余分な不随意緊張を作らずに、楽な気持ちで生きる秘訣ではないかと思うのです。
しかし一方で、こういう心の使い方を体得するまでには、
まず徹底的に執着しつくしてみることが必要になることもある、
とも思うところであり、
やはり話は難しい。
陰極まって陽に転ずる、
緊張極まって真の弛緩に転ずるという面もあり、
簡単には言えません。
簡単でないから、修行を通して心というもの、身体というものをよく知って理解してゆく必要があるのでしょう。
一休