一休 真実の探究

野口整体、霊性修行、スピリチュアルなこと、気 エネルギーについて

残り物には福がある

このことわざの意味が、私は自身のこれまでの人生で身に染みて分かる気がしているものです。




子供の頃から競い合い奪い合いは嫌いであったし、
人が欲しがるようなものを我先にという思いも持ったことがなかった気がします。

おそらく、そうして獲得したところで妬み嫉み恨まれるのが嫌だったからでしょう。
気が小さく、そういった人の念に対して非常に敏感だったのです。

だからたいがい残り物でやってきた気がします。



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この性格この生き方をしてきて、
当然楽して得してというのはあまり無かったと思います。
おいしいところは誰かがもって行きますから、人が見向きしないものが来るし、

あとは人の嫌がること、大変なこと、おもしろくないことを体よく押しつけられたり、
一番損しておいしくないことがいつも巡ってきます。


それでも、人の負の念を受けるよりは一人で黙々と降ってきたことに取り組んでいる方が楽だったのだと思います、
そのうち自ら率先してそういうのを選ぶようになってました。




若いときの苦労は買ってでもしろと言いますが、

この性格のお陰で買った覚えはないですが、苦労を多くできたことは本当に良かったと思っております。



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今になって、そうして養われてきた心の使い方が、霊性修行として非常に大切な基礎であったということがよくわかるのです。
その主は一番大切な、受容してゆく力です。
これを早い段階から培って身に付けてこられたのは、この道を歩む者としては大きい。

今思えば、与えられてきた残り物は自身の霊性を育てるのに必要な福でした。




そして、今は法縁にも恵まれ、普通はそうそう得られることのないだろう恩恵も受けています。

法に関する物品なども自分のところへ巡ってきているものはとんでもなく稀有で貴重なものばかりで、
求めたところで手に入る代物ではないです。


今の自分には身に余るものですが、それだけ上の世界から期待もされているのかもしれません、
ので精進しないといけないと思っております。



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大局的な高度な見地からみたら、
我先にと得たものが、その行動から得たものが、最も自身を満たしてゆくものにはならない気がします。


残ってるやつでいいです、与えられたものを頂戴しますという、

そういう行動から得られてくるのは、
その時はわからなくとも長い目でみて、真から自身を満たしてくれる巡り合せのような気がするのです。




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昔は、そんなことではダメだと自分の性格を周囲からは散々否定されてきましたが、
今はこれで正しかったということが確信をもって分かるものです。

おかげで人の持つ浅ましさや愚かしさという、心の悪魔を見抜く眼力も育ててもらえた気がします。




残されたものにこそ、もっとも価値のある福があると私は思うものであります。



一休