一休 真実の探究

野口整体、霊性修行、スピリチュアルなこと、気 エネルギーについて

今日の日記

今日は久しぶりに少し都内の神社に行って来ました。

気分転換にと思って行ったのでどこでも良かったのですが、一応神田明神へと向けて出発しました。


久しぶりの神田明神でしたが、上空を見上げると透き通った気が力強く、
さすが神田明神だなと思いました。
近所の小さな神社にはよく立ち寄ってご挨拶をしているのですが、
こういうところに来るとやっぱり一味違うものがあります。



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次にそこから歩いて、はじめての湯島神社に行き、御初のご挨拶をしてきました。



帰りの電車では、隣にホームレスかそれに近い暮らしをしていそうなおじさんが座っておりました。

そのおじさんの両隣だけ席が空いてたので座りましたが、
明らかにサイズの合わないサンダルを履いて、恐らく拾い物であろうポータブルのゲームの麻雀に夢中でした。


やはり多くの方は、身なりのキレイでない、拾ったような服を着ているホームレスのおじさんの隣は避けるのでしょうが、
私は隣に座っていても、おじさんからあまり嫌な気を感じることはありませんでした。

むしろ、一見小綺麗な格好をしている他の乗客、スーツをバシッと着ている人に化粧をばっちり決めている若い女の子、そんな方たちのほうが遥かに感応したくない殺伐とした嫌な気を撒き散らしてるように感じられました。



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ホームレスの方といってもピンきりでいろいろな人がいるでしょうが、
中には独特に欲から開放されてるような人がいるように思います。


娑婆の殺伐とした、欲望、羨望、駆け引き、奪い合い、等々から逸脱して生きている、
同じ世界に生きているようで、一歩ズレた世界に生きている。


世の中の普通に生きることにしがみついている大半の人たちよりも、こういう人のほうがどこか自分に近いものがある気がします。
隣に座っていると、なにか波長が合うのがわかります。
がっついてない、成るに任せてるようなところが合っていると感じるのだろうか。



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どれだけキレイに着飾ったところで、心は飾れるものでない。
欲にまみれた薄穢い心というのは、飾れば飾るほど汚れが目立ってくるように感じられるものです。



一休