一休 真実の探究

野口整体、霊性修行、スピリチュアルなこと、気 エネルギーについて

今日の日記

しばらく継続してきた課題の行が、今日の午前中でとりあえず一区切りついたところです。

気分的にもひと息つきたいところで、
午後はまた久しぶりに、北鎌倉円覚寺の釈迦如来に諸々のご挨拶をしに行って参りました。



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個人的なことだが私は、ゴータマ仏陀、すなわちお釈迦さまとはどうも縁が深そうであります。

若い時から仏教に関心が強かったし、自分の誕生日も4月8日の潅仏会で、
ゴータマ仏陀が生まれたとされる日です。日本の場合は新暦ですが。



そして、これから次の段階で行ってゆく行は、その仏陀が行った非常に貴重な仏陀の法というものであり、
これはよほどの縁がなければ授かることはできないであろうものです。


仏陀の言葉に、縁なき衆生度し難しというのがありますが、

他力行の世界では、すべては縁によるものと言われるほどに、縁がなければどうにもならない世界です。


しかし縁さえあれば自分のような凡才であっても導けるということだそうなので、
私はこのお釈迦さまのご縁にあやかり、導きを頂いてゆくつもりです。



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今後のこと、自分にもっとも相応しいヒーラーの道、菩薩行の道を示し導いて頂けるようにとお願いをして参りました。


ただただ精進するしかありません。
あとは神委せです。




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一休

風邪の効用

風邪をひいて熱が出ているところです。


ここしばらくの活元瞑想では、これまではなかった深い動きがよく出てきている、そういう波が来ているのを感じておりました。

数日前の活元で、ちょうど寝不足も続いていたのでそうした疲労が弛んで出てきたこともあり、風邪を引きました。




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一般の認識、医療や治療に携わる人においても、

風邪は悪いもの、ひくことは良くないとされているものがほとんどではないかと思いますが、

野口整体においては、風邪は上手に利用すべき健康法であります。




なんで風邪をひいてしまうのか、


抵抗力が弱っているから。
それで間違いはないのです。

疲労の蓄積などで、働きが鈍っているのです。
そこに邪気が入り込んで、今度はそれを身体がやっつけ追い出すために風邪の症状というものが出るのです。


熱が出るのも痛みが出るのも、咳や鼻水が出るのも、お腹がおかしくなるのも、

入り込んできた邪気をやっつけて追い出すための機能が活発に働くが故に起こっているものです。




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抵抗力が弱っている時というのは、
そうした機能の働きが鈍っている時です。

鈍っているから抵抗できずに邪気を取り込むわけだが、


取り込むことで、今度はそれらの機能が活発に働き出します。

邪気が入ってきてしまった、これはいけないということで、
身体が、持っている力を総動員させてやっつけ追い出すために働き出すわけです。



このときに、

永いこと機能が鈍ったままになっていたものや、サボっていたようなものまで、
追いたてられて尻に火がついて働き出すのです。


そうして、ただその時の邪気を追い出すだけではなく、
サボっていたのまで叩き起こして行くように仕向けるのが、
風邪を利用して身体を強くするという健康法としての利用です。


せっかく動き出した機能を、より良く活発に働けるよう促し手助けするのが上手な経過であり、

そこのところが大事であるとして野口先生は指導されております。




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人間丸ごと、人生でも同じです。

サボり癖がついている人は、追い詰められて尻に火がつくまでなかなか動けないという人もいるでしょう。


サボって働きが鈍っているものは、
外部からの刺激でひっぱたいて叩き起こされないとなかなか動かないものもあるのです。



野口先生は、火事場の馬鹿力とか、溺れるものは藁をも掴むとかの話を引き合いに出しておられるのだが、


追い詰められてギリギリにならないと働いてこない、本領発揮してこないものがあるのです。




私は今のところまだ縁がないが、
仏教の修行でも、段階ごとに断食行を行うよう決められているものも多く見られます。

飢餓状態になるまで動かない機能を、そうして呼び起こす目的が一つにはあるだろうと思われます。




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身体機能でも、心の働きでも、

そうして使われることなく眠らせている力を、
普段的に存分に使えるようにしてゆくべきとするのが、野口整体の考え方であります。


本気で生きる、
全力で生ききるという、

全生思想の元にあるものであります。




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浄化行を永く続けているとよく分かってくるのですが、


身体が変わって行こうとするとき、
古く内在させていたような邪気を吐き出そうとするときにも、

身体が自らの要求でそのきっかけになる邪気を取り込むということもあります。


鈍っていたり、未発達であったりする免疫系統の働きを喚起させるために、
わざわざ毒になるものを取り込んで、自分の体内で薬をつくる働きを活発にさせるという、
そんなことまで身体はしているのです。



心身の働き、
生の設計というものは本当に奥深い。

悪い頭で考えたのでは到底できないようなことをやっている。

身体に備わる知性の方が、遥かに賢いものであります。



一休

宿す力

ある修行者の経験した話です。

その方は、インドのある聖者から水晶のリンガム(神を象った石)をもらい、


それを手に持って日々瞑想しなさい、
そうすればそのリンガムはだんだん大きくなってゆくと言われたそうです。


その方は半信半疑で続けたそうですが、大きくはならなかったそうです。



その後再度その聖者に会う機会があり、大きくならないと告げると、
貸しなさいといって聖者がそれを手に握り祈ると、倍くらいの大きさになったそうです。

そのリンガムは以前誤って落っことした時にできたクラック(ひび)があったのだが、そのクラックもそのまま倍くらいに伸びていたそうです。

そしてそれ以来、疑心を捨てたのだそうです。




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半信半疑で信心が薄かったから大きくならなかったのかもしれない。
あるいは気づかないくらい少しずつ大きくなってたのかもしれない。

わかりませんがこの話、

想いや祈り、信心と、物品とのエネルギーの関係が分かりやすく出ている話に思います。



このリンガムは入魂されているものであり、特定の神のエネルギーに周波数を合わせてあるものです。

想い祈れば祈るほどに、神のエネルギーがリンガムを通して流れてくるので、そこに宿るエネルギーも大きくなってゆくのです。


多くの人々に、善き想いで信仰されている仏像などもこうした形でエネルギーを大きくしております。


反対に、
善き想い、善き祈りを永く受けていないものが廃れてさびれて、力がなくなっているように思われます。
そして、低級霊が入り込んでるものもある。



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こうしたことは人間にも言えることで、

親や周囲の大人から善き愛情をいっぱいに受けて育っている人というのは、
なんというか、自分を信じる力があるというか、
自分の中にある神のエネルギーを思いのまま使えているように思える。


逆にそうした愛情が不足して育っている人は、
自分を信じることにも大きく苦労して、
自分の中に本来持っている力を思うように扱うことがなかなかできない。



神棚、仏壇であれ、お守りのようなものであれ、他にも身近に日々扱っている物であれ、

善き想いで意識を向ける、心を込めて接することで、
善きエネルギーが宿り増して行くものと思います。

いい加減に雑に扱ったり、忘れ去られてしまったものに、
善い作用は望めないであろう。



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人の心身は同じことであります。

修行においては、日々の一つ一つの行いをとにかくきちんと丁寧に、心を込めて行えと言われます。

自分の心と身体を、大事に丁寧に扱えと言われるのです。

私は雑で荒くだらしなかったので、さんざん小うるさく指導を受けてきました。


育ちとその後の生き方で、悪しき習慣化された心と身体の動き、使い方を、
時間をかけて地道に矯正してゆくのが修行であります。

そうやって、自身の裡にある神の力を引き出して使えるようにしてゆくのです。



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こうしたことは、終わることなく一生続く修行であります。




一休

現世の妙味

現世で生きるということ、エネルギーの性質というものも、
簡単に単純には語れないものが沢山にあるものだなと思います。


自分が多く触れてきたもので一つ言うと、
芸術要素を含む表現には、単純には語れないものを見出だせます。




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音楽、絵画などの作品、
世界的なものから、庶民的な趣向性の強いものまでいろいろとありますが、

これらの中にはネガティブなマイナスな波動を含むのも多くあるものです。



恨み憎しみ、悲しみ、無念の想い、陰鬱、闘争的な荒さ、


さまざまな作品の中にはこうしたネガティブなものがぶつけられ投影されている作品というものも数多く、
程度も種類もさまざまなものがあると思います。



それらにはネガティブでマイナスな波動を含んでいるものもあるから、
ではそれに触れていたら誰しもが悪い影響を受けるのかと言えば、


実際にはそういう単純なことが言えない。



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深い悲しみに潰されているとき、

悲しみの波動に触れることで、心が癒されることがあるのです。



陰鬱な苦しさの中にいる人が、
陰鬱な波動に触れて、心休まることもあるのです。


狂気に翻弄されている人が、
荒い狂気の波動に触れることで、心が鎮まることもあるのです。



こうした経験に心当りのある人は、少なからずいると思うのです。



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エネルギーの原理として、なぜそういうことになるのかは解らない。

解らないが、考察するに同じ波動が干渉することで打ち消し合うのかもしれないという気がする。



ホメオパシー療法の原形は同種療法と言われているが、
それと同じようなことかもしれない。


健康な状態では本来毒になるようなものを、
例えば高熱を引き起こすようなものを、

既に高熱になっている状態で摂取すると、打ち消し合うかのように症状が鎮まるという、

毒で毒が制されるといった療法である。

こうしたものの実績は、毒と薬が本来紙一重であることを示しているものと思う。



ネガティブなもの、マイナスな波動を持つものを、
ただ闇雲に悪いものと決めつけられない難しさと複雑さが、

この現世で生きるということには恒に付きまとっていると私は感じるのです。


修行という角度から、大きく単純化して言えばネガティブは除くべしとなるのだが、
人が生きるという、もっとも複雑で難しいところから語れば、簡単な話にはならない。



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ポジティブとネガティブとを完全に二元化して、
光、輝き、愛、幸せと、

ポジティブばかりを強調して謳っているものも世の中には多く見受けられますが、

私個人としては、そういうのにはどうしてもいまいち真実味を感じられないというか、
芯の無さ、薄っぺらさを感じてしまうものもけっこうある気がします。




現世で人として生きるということは、

やはりそれ相当の複雑で難しい要素を持っているものであり、

だからこそ、
それだけ価値のあるものなのだろうと私は思うのであります。




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一休

病と魔界

癌細胞の働きやインフルエンザ、SARSなどの危険なウィルス感染の動きなどを見ますと、

これらの動きは非常に攻撃的な感じがします。



人体の一つ一つの細胞は、正常に機能していれば人を生かすための働きをしており、

それは神の意思を体現している、善なる働きと言えます。



ところが、危険なウィルス感染などすると、
この細胞の働きが正常を保てなくなり異常を起こして、
こんどは人を攻撃し、殺そうとするような働きを持ったりするようになるということですが、


こうした動きは、どうも自然的、調和的な緩やかな動きではなくそこから逸脱した感じのとても攻撃的な動きと思えます。



霊的なことを言えば、その動きの元にある意思は、魔界に通ずるものがあるようにも思えます。

魔の意思であり、悪の働きです。




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細胞一つも意識体であります。

人間のような心は無くとも、なんらかの意思をくみ取りそれを体現しているのです。


それを最も正常ないい形でくみ取っていれば、
それは神の意思をそのまま体現でき、

異常を呈してしまっているとき、
その意識体は魔の意図をくみ取ってしまっているとも考えられます。



人間という意識体が悪魔に魂を売ってしまえば、
悪魔と繋がり、悪魔の意思をくみ取りその意思で行動をするヒトラーのようになるのです。
それと同じようなことなのではないか?と思うのです。



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勿論異常のすべてがそうだとは言えないが、
正常を保っていなければ魔や邪の影響を受けやすいということは言えると思うのです。



細かく、細分化して言えば細胞レベルでいろいろなことは起こっているわけであり、

中毒者がその成分や行為をやめられず欲するのは、細胞がその邪なエネルギーを記憶しているからであり、
その記憶された情報が書き換えられるまで欲求が続くのである。



人間の腸内には善玉菌と悪玉菌が生息しており、
ストレスが溜まれば悪玉菌が増えて毒素、すなわち邪気を放出するのである。

赤ん坊の腸内は99%が善玉菌であるのだそうであり、邪気がないから無邪気なのである。


悪玉菌のやっていることは魔の意思と通じていると言えるのではないか?




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浄化行では、魔を追い払う、魔を退治するということを行って行きます。
魔、という表現が実際になされているのです。


それは自己の内部に巣くっている魔であり、魔に通ずる要素であり、
それに対し、それらが嫌うものや天敵といえるような霊的エネルギーを取り込むことをします。

それらは自然界にある植物や動物として存在しているものであったりもするのでそれを使用するのだが、
その中身や使用については秘密であり、秘技秘伝とされている。




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この世は善と悪、正と邪が混在する対極の世界であり、
上の次元に行けば弥勒の世が存在し、反対の魔界も存在するのである。



攻撃的なウィルスの動き、疫病などが活発になっているとき、
細胞レベルで魔の力が活発になっているのだと考えられる。

これらにやられてしまうのは、魔につけ入られたと見るべきなのかもしれない。
邪気は、魔を呼び惹き付けるのである。


病に侵された体の一部が魔界と繋がってしまっているのではないか?



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一休

出てきたものは~続き

野口先生は、生きていることそのものが活元であると言える、
と言われております。


癌だってなんだって、必要があるから出来ている、自分で作っているのだと言われている。



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癌とかの悪性腫瘍とかも、
なにかしら意味があって、それ以上の心身の壊れるのを免れる為の調整として作り出しているとも考えられます。

邪気として内在させているよりも、形ある異常として作り出した方が、心身魂のあるべき流れに悪影響が及ばないからそうした病気が発生している、
裡に隠れていたものを、外に出していると考えられるのです。



身体の持つ本質的な、生の設計の機能は、恒に順応変化し正常を保つため整って行こうとする働きを持っているものです。




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霊性修行の立場からみれば、

人生とは霊性向上のための御魂磨き、浄化修行であり、

心を磨き、魂を磨き浄化して行かなければならないということを、
現世に人として生まれれば否応なしに運命づけられているということになります。



なにも考えずに生きていたって、魂は磨かれてゆこうと働いており、人生はそのように進んで行く、

それが本質的なエネルギーの流れであるのです。


その流れに抵抗すればするほどに、抵抗する働きに身を寄せてしまうほどに、
大変な思いをしなければならなくなってしまうのです。
滞りを大きくし、邪気を蓄積することにもなるのです。


だから心も身体も、その流れと変化に合わせて常に調整、浄化されて行くことが望ましい。

心身の浄化が追いつかなければ、身体は無理をしてでも毒だしをしてくる。そうして大病を患ったりする。
流れの悪いエネルギーをなんらか形に変えて排出するようなことになるのです。


当然そうなる前に、悪いエネルギーは小出しに出て行くようにした方がいいわけです。




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自分の心身が、自らの力で調整し浄化しようとする働きを最大限引き出し、活発にしてゆくための方法として、
野口先生は活元運動を指導されていました。



活元運動を行うその目的は身体を整えることであって、病気が治ったり、病気にならなくなったりすることではない。

異常を敏感に感じて素早く対応できる身体にすることであり、
弾力ある身体の状態を保とうとする働きを活発にすることを言うのである。

健康とは病気にならないこと、という観念から脱却すべきだ。
(野口先生の書物より引用)




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一休