一休 真実の探究

野口整体、霊性修行、スピリチュアルなこと、気 エネルギーについて

神仏の魂

密教などでは、入魂という技術があります。
神、仏などの高次のエネルギーを物などに入れます。

高次エネルギーに周波数を合わせることで、その物がその波動を持つようになり、言わば神仏が宿ったご神体になります。




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こういった技術というのは、力を持った人が正しい方法で執り行うことで可能になります。

お寺の仏像などには本来これが施されています。
が、現実的にはそうなっていないものもどうやら多くありそうです。
というか、恐らく形式的には行われているのだろうが、ある時代からは力を持った僧侶がいなくなっているのだろう。




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有名寺院の仏像でも、神仏どころか低級霊が宿ってたりするものがあります。
明らかにおかしい感じがするのでわかりますが、
低級な動物霊などは人を小馬鹿にして楽しんだりするというから、入魂されてない仏像などそれらからすれば格好の住み処なのだろう。
きちんと入魂されたものに、低級なものが入り込む余地はないはずです。




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本当に神仏が宿ってるところでは、いい心身の弛みや緊張が起こるものであります。高次のエネルギーを受ければそうなります。

心がほっとするとかあったかい感じとか涙がでてくるとか、包容される感じがあれば間違いなく神仏が宿ってます。
凛として背筋が伸びるとか、おかした過ちが浮かびあがって謝罪したくなるとかも神仏を前にした反応です。

自分の中にあるより高次の要求を意識的に感じられたら、そこにいるのは本物の神仏です。




逆に、気持ちが悪い感じとか、薄気味が悪いとかであったら、そこにいるのは低級霊である可能性が高いです。
姿形が仏様だからといって、手を合わせることはしないほうが無難です。

気味悪さを感じられない人でも、そこにいて、自分のなかの低い要求、俗な要素と繋がるものがあるのではないかと思います。




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お寺の神仏の場合、有名かどうかとか、由緒が正しいかどうかといった肩書きでは本物であるかの分別ができない印象があります。

名前や由緒より、
正しい信心を芽生えさせ育ててくれるところが、いいお寺であるのだろうと思います。

信仰の仕方も人それぞれ、その人がいいと感じるところが、縁のある相応しいところなのだろうと思います。



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一休