未知なる世界
野口整体では無意識への信頼と言います。
スピリチュアルな言葉で言えば、うちなる自分、ハイヤーセルフの要求を信じるということになりましょうか。
信仰で言えば、神に身を委ねるとなりましょうか。
身に起きることに意識で抵抗するのではなく、
頭でいろいろと考えて行動するのではなく、
勘と感覚で感じられる導きに従ってゆくことが大事であるとするのが、
私の学ぶ生き方であります。
外側の意識ばかりで生きている、
頭ばかり使って生きている人にとっては、
この生き方を理解し学ぶことは、とても難しいことのようです。
これらは、体感認識によって理解が進んでゆく世界であり、
感じられないことには、体験しないことには理解は進んでゆかないものであります。
ところが、
これを頭で理解をしないと受け入れないというような人が沢山におりまして、
そういう人にはすごく難解な世界と思われるようです。
そもそも、
意識的に、外側の意識でといったところでしょうか、
そこで理解をしていると思っていることの多くは、自分の思い込みです。
完全に思い込んでしまっていることというのは、自分ではなかなか気づくことはできません。
これしかないとか、こうでなければとか、
そういう思い込んでいる心が、解かれることが自覚されるということであり、
自覚されなければ、それ以上変わらないし進歩しません。
今までの思い込んでいる理解で見えている分かっているもの、
それを越えていることを理解してゆこうとする世界なわけですから、
今までの物事の理解で、その今の頭で納得ができるものではないのです。
勘で、感覚で感じられて、先に答えが分かり、
そのあとからどうしてその答えなのかというのが解ってくるというような、
そういう順序です。
分からないうちからそれについて、
受け入れられるか、られないか、
判断材料を吟味して、ああかもしれないこうかもしれないと一生懸命考えるとか、
そういう頭の使い方は、しません。
思い込みに縛られ、未知の理解を受け入れることに抵抗をしているその元にあるものは、
なんらかの怖れであります。
思い込んでいる心を解いて自覚を進めてゆくということは、
怖れを手放してゆくということとも、ほぼ同義であるかと思います。
一休