霊体を調える
近頃活元瞑想を行っていると、
こうした瞑想法は修練を積んでゆくと、霊体を調える作用が大きくあるのだということを実感しています。
人の身体は大きく別けて、
肉体という物質体と、
霊体というエネルギー体、
という形で別けることが出来るかと思いますが、
肉体の歪み、偏り、硬ばり、病気、さまざまな不調和、
その元にあるものは、なんらかの霊体の不調和であります。
すべてがそうだと言い切れるものかは分かりませんが、
肉体に不調和が現れる前に、まず霊体に不調和が現れるのが先である、
というのが基本的な流れと考えております。
肉体を、肉体からアプローチして整えて行こうとする治療法や健康法が一般に沢山あるかと思いますが、
それだけでは本質的な改善がなかなか為されないという場合も多いのではないか、という気がします。
いろいろな形での邪気を受けることにより、
普通の人ならばおそらく簡単に霊体に不調和をおこします。
私自身がそうであります。
特に都会で暮らしていれば、不調和の要因になるマイナス波動、霊障、電磁波などは身近にいくらでもあります。
霊体が調うことなく、実感出来ている方の肉体の不調和だけを無くすということは難しい、というか無理なのではないかと思われます。
活元瞑想で出てくる動きは、無意識の不随意運動です。
霊体と、肉体とが一体となって調整されて行こうとする動きであり、
修練されてゆくほどに自浄作用が深く出てくるようになるものです。
密教の伝承では、その基本であり根底にあるのは浄化の技法です。
それは特に、霊体の特殊な浄化技法であり、霊体のより深くへ直接アプローチしてゆくようなものです。
普通の人はだいたい、目に見える部分であり体感しやすい肉体だけに意識が向きやすいものですが、
目には見えない得体の知れない、
この霊体、エネルギー体というものも含めての浄化であり調整でありが、
健康に健全に生きるのには大変重要なのだということが、行を続けてゆくとよくよくわかってまいります。
一休
邪気
私の行ずる世界では、この邪気という言葉がよく使われます。
言葉で言えば一言ですが、
その中身はといえば、相当に幅広い広義な意味合いを持っているものです。
ちなみに、大陸ではこれをブラックエネルギーと呼んでいる地域が多くあるとのことで、
ブラックという言葉でもよく使われます。
自分もこの邪気というものをいろいろな形で見たり感じたり、
知れば知るほど多様なものだと思うようになっています。
大まかに言っても、
心に起こる陰性感情で発生するネガティブなエネルギー、
マイナス波動の場所や空間、
低級霊などの発する邪のエネルギー、
もっとも分かりにくい悪業(カルマ)として存在している負のエネルギーなどいろいろあり、
すべて邪(よこしま)な気であります。
その気の影響を受けることにより、
人のエネルギー体を歪める、乱す、曇らせる、濁らせる、
等を引き起こし流れを悪くするものです。
人が健康に健全に、全うに生きるのを阻害するような働きを持つものでありますので、
避けられるものは避け、そうでないものは出来る限り浄化する、
それがこの邪気に対しての基本的な考えとなります。
そして、
出来る限り正気を保つよう心掛け、その正気の質を上げて行くことが修行の大きな目的であります。
さらに言えばその先には悟りがあり、
正気を高めて行くための基本的な大事になる要素を、仏陀は八正道として説いております。
一休
生まれ変わり
昆虫は、成虫になって羽ばたく前に、
サナギになって生まれ変わりの準備をしています。
爬虫類は、生きるか死ぬかの一大事行である脱皮を経て生まれ変わり、
一部の動物は冬になると冬眠をして毎年ごとに小さな生まれ変わりを繰り返します。
人間も、生まれ変わってゆくには一度子宮へ戻るかのごとく幼子に返り、
苦しい浄化を経て新たな成熟した自分へと生まれ変わってゆくものと思います。
活元瞑想を行っていると、そうした光景を見ることがあります。
瞑想中、だだっ子のようになったり、幼子のように泣いたり、
そして動きがおさまってくると、
ちょうど子宮の中の赤ん坊の形になって大人しくしていたりします。
瞑想中に子供帰りをしているのです。
成人になってから子供のようになってしまう子供返りというものも、
やり残してきた幼い要求、子供の要求をやり直して、そこから新たに生まれ変わり成熟して行こうとする、
本当の大人になってゆこうとする働きであります。
要求を満たし、経過することで一つ成熟するわけです。
私も行を通してこうしたことをいろいろと経験してきましたが、
これからどんな生まれ変わりがあるものか、
とんでもない脱皮の苦しみ、とんでもない赤ちゃん返りを体験することになるのかもしれない。
一休
今日の日記
近頃、修行と及び修行に関わること、そして仕事と、
それ以外何処かに出かけたりはあまりなく過ごしているところです。
しばらくの間、自身の過去の行いで気付かぬうちにも積んでしまっている罪や穢れというものを浄める法を用いて、行じてきたのですが、
それも一区切りついてこれから、
生まれ変わりの行の第一段階を行ってゆこうというところです。
自身の裡にある神性、仏性に還って行くには、生まれ変わるための行が必要であるとのことです。
密教の教えなのであまり詳細を書くわけにはゆかないのですが、
一度子宮に還って行くというような内容の行であり、
方法としては、子宮を意味する洞窟内での決められた一定期間の瞑想を行うというものがあります。
母胎の中でこの世に生を受けるところまで逆戻りするというものです。
その行自体はまだまだ先の段階なのですが、
そのための序の口を行ってゆくところです。
心、魂の浄化であり癒しでありというものには、
こうした過去へたち戻るということが必要になることが多々あるかと思います。
幼少期や前世を癒す療法などを見ても、要素としては重なります。
神道でも、神社は子宮を意味しており、母の股である鳥居をくぐり、産道を通って本殿の子宮へたち戻るという、
そういった意味合いを持っているともいいます。
なので後ろ向きで行くのがいいという話も聞いたことがありますが、
実際にそんなことをしたらちょっと怪しまれそうです。
密教の世界では、今まで幾千年と秘密にされきたものが、ここへ来て縁ある者へと広く公開されつつあるようです。
次元上昇の影響はこうした世界でも表れております。
一休
決断すること
野口先生も言っておりますが、
人生を拓いてゆくのには、
決めること、決断することがまず必要であり、大切であります。
こうしたい、こうなりたいと思っても、
できない理由、なれない理由の方が勝ってしまって無理だろうと思う、
そんな時には、
先ずは、決めなければならない。
自分はこうするんだと、
自分はこうなるんだと、
まず決めてしまうことです。
決めてから、その道は拓かれてくるのです。
決断しなければいつまでもそのまま、
できない理由のまま、なれない理由のままです。
人生はすべて、自分の決断で出来ているとも言えます。
好む好まざるに関わらず、
自分が選び決めてきたことの結果が、
今の自分であり、今の状況であります。
生きてることは選択の連続であり、
自分がなにを選び決めるかであります。
一休
ソウルメイトとの課題
私は永いこと、それこそほんの数年前まで、自分の父親に対して強く感情を抑圧して生きておりました。
昭和も初期の人だから、亭主関白で厳しく、
子供のころの自分の目には、絶対的な権力者のように映っていたのかもしれません。
父親を前にすると言葉がでなくなってしまうというのが大人になってもありました。
それが数年前、
導きと思える縁があり、ある方に自分と父親との前世での関わりを見てもらうことになったのです。
そしてその結果は、
なるほどとうなずけるような確執がありました。
確執を抱えたまま二人仲良く弓矢で討ち死にしていて、
その死に際に特に決定的な確執を作っているようでした。
今生で親子として関わっているのは、
お互いに折り合うことが課題であるからだと、その方から教えを頂いたものです。
野口整体でもエネルギーヒーリングでも、こうしたトラウマ的な要素は多分に扱うわけなので、
これらを学びに来ている人の中にも、似たような問題を抱えている人が少なからずおります。
60歳になっても拭いきれない親子の確執があるという方もいます。
その方は教師をしている立派な方ですが、それでも心の中にはいろいろあるようです。
私はそうして前世での関わり、その時の想いというものを見てもらってから、
ゆっくりと父親への恐怖心のようなものや抵抗感といったものがなくなって行き、
いつの間にかわだかまりもなくなりました。
今となっては、世話になったなという感謝の想いが大きくあるものです。
うまく言えないところですが、
本当の意味で自分の人生が始まったんだなと思うようになった、
本当に新しく人生が拓けてきたなと感じるようになったのは、
このことからのような気がしています。
おそらくこれが、今生でのメイン課題の一つだったのでしょう。
それまで、現在を生きているようで、いつまでも幼少期の感情を引きずり過去に生きてしまっているものがあったのだろうと思います。
自分に限らず、
親子、兄妹といった密着した関係、育成環境にメインの重要課題を持って生まれている人は少なくないと思います。
自分の関わるいろいろな人を観察していてもそれが見てとれます。
そうした課題となる感情的な問題が心の裡に抱えこまれているうちは、
当人以外の別の人との間で似たような問題のある関わりを築くことになったりと、
課題の代替えのようなことが起こることも多々ある気がします。
しかしそれも、
大元である当人との問題が解決されれば雲散霧消、消えてなくなってゆくのでしょう。
人生におけるこうしたメイン課題が、なるべく先伸ばしされることなく解決されてゆけばゆくだけ、
その後の人生がより実りあるものになって行けるのではないかなと、
私は、自分の体験からそう感じているものです。
一休
食
霊性修行においても、
気、エネルギーを扱うにおいても、
健康に生きるということにおいても、
食というものは、言わずもがな非常に重要な基本要素の一つであります。
世界中いろいろな流派での霊性修行での食、
霊的にきわめて優れている人の食、
そうした民族(ネイティブシャーマンやアフリカのシャーマンなど)の食、
どれを見ても基本的な共通点は、
自然に育った食物を摂っているということと、
動物性のものをほとんど摂らないということです。
人が健康に生きて、死の間際まで他者の手を借りることなく、
そして旅立つ時には眠るように大往生する、
そういう人生のために必要なのは、
やはりこの自然食というのがなにより望ましいものと思います。
しかし、
現代の日本で生きる人がこうした自然な食物で日々を生きるということは、
求めたところで非常に困難であるというのが実際のところであります。
市場に出回っている野菜のほとんどが、一代限りの繁殖能力のないものであると言います。
見た目にきれいで、収穫時期が一定になるよう人工的に操作された種を植えており、
二代目以降使えないので毎年国から種を購入しなければならない、そういうシステムで成り立っているそうです。
栄養価も、生命エネルギーのプラーナも乏しい上に、ケミカルの肥料農薬も沢山使われております。
有機栽培と言われるものも、そこに使われている肥料の糞は、
人工的に飼育され、ケミカルを摂取してストレスを抱えて育った家畜から出た排泄物であるので、
毒素やネガティブを多量に含んでいることが推測できます。
必ずしも安全とは言えないようです。
近代化する以前の自然食の暮らしをしている民族の食事量など、現代人よりも遥かに少食です。身体を沢山使う重労働をしているにもかかわらずです。
現代人ほど長生きしていないとは言っても、現代人のようにあちこち心も頭も身体も使い物にならないほど壊れながら得ている生とは違う。
現代の食の状況が、ただ悪いとは言えない。
人工的に高い生産性を得られていることで、食を楽しむということも、お腹一杯食べられるということも可能になっている。
それは、これまで人類が常に飢えに苦しんできたなかで望まれてきた想いが創り出した、世代を越え時代を越えて叶っている一つの形ではないかとも思えるのです。
飢えの苦しみ、その想いを浄化しているのではないかという気がするのです。
しかし、これからの時代、
より高いレベルでの霊性の向上、意識の覚醒といったことが進んでゆくに従い、
現代の食の状況はどんどん相応しくないものとなってゆくはずです。
はたして今後、世の中の食の状況はどう変化してゆくものでしょうか。
一休